今日も「侘び」について考えます。
大亀老師は、「侘び」は常に流動的で
時代時代の「侘び」があってしかるべき、
と考える と仰っています。
利休が「侘び」としたものを現在実現すると
広い庭の一部に山村の風景をつくり
数寄屋普請で茶室をしつらえ、
使う道具は数千万の金額。
果たしてこれが侘びと言えるのか?
とは言え、この種の茶事を離れては
今の流布しているお茶は全く遊戯に
等しいもの だと...。
大亀老師はその上に
しかしそれでも全くないよりはましで
そんな遊びでも、
侘び的なものがなくても
少なくともまだ
和敬清寂の世界が好ましいと。
現代は現代の侘び
宗教的な侘び
感謝の念を持つ
うーん
現代はお茶で侘びを表現するのは
難しいという事なんですね。
でも利休が示した「侘び」を
習いつつ、
自分なりの「侘び」を模索。
答えが出ないです。>_<